オーテス・ケーリ『真珠湾収容所の捕虜たち』を読んで

吉祥寺の古本屋さんに、別の本を探すために入ったのに、その本がなく、たまたまそこに並んでいたある本の標題が目の端っこに留まり、帯に「捕虜の尋問を通して日本人の本質を喝破し、戦後日本を震撼させた幻の名著 半藤一利」と書いてあるのを見て、つい手に取ってレジに持って行って購入したのが、ちくま学芸文庫の『真珠湾秋桜所の捕虜たちーー情報将校の見た日本軍と敗戦日本』でした。この本の初版は1950年2月。著者のオーテス・ケーリさんは、この書物を出版した時、なんとまだ28歳。捕虜収容所で情報将校として働いていた時には、22歳。彼は、宣教師の息子として日本の小樽で生まれ、日本人小学校へ通い、日華事変がはじまる前の年、14歳でアメリカへ帰るまで、前後三回約3年間をアメリカで過ごしたほかは日本育ち。日本真珠湾攻撃の日には、20歳で、マサチューセッツ州のアーモスト大学の3年生だったという方。戦後も、占領軍の一員とし来日し、その後帰国してアメリカで学位をとったあと、再来日。長く同志社大学で教えられ、定年後の1996年にアメリカに帰国。2006年に84歳で逝去。彼がながく館長をしていた同志社のアーモスト館には、「教養教育へ熱意を注いだ貢献者/民主主義の本質を鼓舞した教育家/二つの文化に精通した歴史家/その幅広い世界観によって、知的視野を大きく広げられた幾世代にもわたる学生が、ここに感謝を捧げる」という顕彰板が掲げられているのだそうです。

そんなケーリさんの若き日の本、あまりにも興味深くて、ついつい引き込まれて最後まで読んでしまいました。引き込まれたのは、彼の日本人捕虜たちに対する、深く鋭い人間観察と、国の違いを超えた、人間そのものに対する深い愛情が、その文章ににじみ出ていたからだとおもいます。彼は、日米の開戦後、周囲の青年が召集される中、悩んだ末に「日本と戦うことを自分が忌避しても、誰かがやることになる。なまじっか心無いひとにやられるよりも、自分がやった方がいい。どうせこわさなければならないものなら、おれがこわそう・・この戦争に参加するからには、途中でやめることなく、どこまでもやり抜かなければならない。日本を破る仕事をするからには、日本を建てる仕事もやらなければならない。」という「深い決意」をもって日本語学校のある海軍に志願し、海軍少尉となり、ハワイの司令部の情報部員になったとあります。その後の彼の人生をおもうと、この若い日の決意は、一生を貫く、真摯な、深いものだったのだと認めざるをえません。上から目線だといいうひともいるかもしれませんが。アッツ島ガダルカナル島サイパン島・・戦地で捕虜になった日本人兵士たちが収容されているハワイの収容所内での彼ら捕虜たちとのやり取りが著書の前半、そして戦後の日本での彼ら帰国したもとの捕虜たちを含む日本人とのやりとりが後半部分を占めています。

自分にとって、特に印象深かったのは前半部の捕虜収容所でのケーリさんの鋭い人間観察と、さらりと触れられているだけではあるものの、捕虜たちが経験したという、戦死した仲間の肉さえも期待するほどの極度の飢餓状態に陥っていたという戦場の悲惨さでした。自分は、小学生の時、年配の担任の先生から、戦争中に戦地のジャングルで食料が無くてヘビを焼いて食べたという話を授業のなかの雑談で聞いたことがあり、戦地の兵隊さんはどれだけお腹が空いていたのだろうかと子供心に恐ろしくおもったことがあり、中学生の時に広島で受けた平和教育で学んだ原爆の悲惨さとあいまって、あらためて戦争というものはこの世の地獄をあえて現出させること以外のなにものでもないと感じました。ケーリさんの文章からは、日本の軍国教育が、いかに、本来すべての人間が持っているいのちの輝きと自由な豊かな人間性をゆがめ、型にはめ、時には死ななくてもよかった人たちをたくさん死なしめたのか、ということへのやるせなさが、伝わってきて、執筆当時の彼が、本当に怜悧でありつつも同時に人間愛に満ちた青年だったことを感じました。たしかに、帯にあったとおり、これは、「幻の名著」なのかもしれません。古本屋さんに立ち寄らなければ、決して出会うことのなかったであろう貴重な本との出会いに、感謝するとともに、今は天国から日本を見守っているであろうオーテス・ケーリさんに、尊敬の念を捧げたいと思いました。今日も、善い日でありますように、