名前だけは、ずっと昔ら知っていた。娘が小さい頃通っていた公立の図書館の神谷美恵子さんの著作集の中に、『ヴァージニア・ウルフ研究』という巻があったから。でも、自分には縁のない作家に違いないと勝手に思っていたので、というか肝心のヴァージニア・ウルフの小説自体が当時は文庫本で簡単に読めるものでもなかったから、大好きな神谷美恵子さんの著作と言えども、あの巻だけは、手に取ることさえなかった。
それが、なんと今年の夏休みに最愛の息子と本屋に行って、「そろそろ新潮文庫の100冊とかの冊子でてるかねえ」などと物色していたら、その冊子に、ヴァージニア・ウルフの「灯台へ」という小説が載っていたのである。なんと、文庫本で、しかも新潮文庫の100冊ということはおまけのしおりももらえるという特典付きで読めるのか!そう思った私は、早速、新潮文庫の売り場に行って探したが、見つからない。あきらめて帰ろうとしたら、息子が、「新潮文庫の100冊のコーナーにあったよ!」と見つけてくれ、無事に入手できたのだった。この夏、ずっと、カバンに入れて、少しずつ、少しずつ、読んだ。ちょうど、1年くらい前に平野明さんのHOW TO WRITEという、とても素敵な、小さな本を、ずっとカバンに入れて、少しずつ楽しみに読んでいたときのように、一気には読めないけれど、少しずつ読むのが、とても楽しい、素敵な読書経験だった。そして夏の終わり、9月の1日に、とうとう読み終わったのだった。感銘を受けた箇所も、きっと今の自分はすぐに忘れてしまうと思うので、ここに、未来の自分のために、引用しておきたい。そして、それをもしどこかでだれかが読んでくださって、『灯台へ』って、おもしろそう、自分に合うかも、と思って、いつかどこかで手に取ってくださったら、などと厚かましいことも、少しだけ期待している。
以下、ヴァージニア・ウルフ『灯台へ』鴻巣友季子 訳、新潮文庫よりの引用です。
「ええ、忘れるものですか。ラムジー夫人はジェイムズの切り抜いた冷蔵庫、芝刈り機、夜会服を着た紳士の挿絵をひとつにしながら、また思った。子どもというのは、決して忘れない。だからこそ、人の言うことなすことにはいちいち気をつけなくてはいけないし、子どもたちが寝つくとようやく人心地つけるのだ。子どもが寝た後ばかりは、だれの心配をする必要もない。本来の自分でいられる。独りになれる。いまの自分に必要なのは、それなんだと思う。ーー考えること。いえ、考えるとまでは言わない。せめて黙って静かにすごしたい。独りでいたい。ふだん人といっしょにいると、ついあれこれに手を出し、うわべを飾り立て、とかくおじゃべりが多くなるものだけど、独りになったらそういうあり方や行動はいっさい消えて、人はおごそかな気持ちにうたれて小さくなり、自分自身にもどる。自分というのは、くさび形をした闇の芯みたいな、他人には見えないものだ。夫人は編み物をつづけ、あいかわらず背筋をピンと伸ばしていた。こういう姿勢の方がくつろげるのだった。この、いろいろな付属物を捨て去った後の自分というのは、摩訶不思議な冒険も自由自在だ。日常生活というものがいっとき眼のまえから消えると、経験の可能性までが無限に広がる気がする。力がいくらでも湧いてくるこの感覚は、だれしも日々覚えるものでしょう。人形をした幻を見て周囲はそれを当人と思うだろうけど、そんなものは子ども騙しにすぎないんだと感じているのは、この自分だけではなく、きっとリリーもオーガスタス・カーマイケルさんもそう思って居るに違いない。幻影をひと皮むけば、そこは真っ暗な闇がどこまでも広がる、底知れぬ深淵。・・・この闇の芯は人には見えないのだから、どこへでも行けるのよ。だれにも止められない。夫人はそう思ってちょっと得意になる。・・」113-114頁
「まるでなにかに呼ばれたかのように、リリーはあわててカンバスに向き直った。まぎれもなくここにあるーー自分の絵が。そう、緑や青をふんだんに使い、ラインを縦横に描きこみ、なにかを表現しようとしているものが。屋根裏部屋に掛けられる絵かもしれない。焼かれてしまうかもしれない。でもそれがなんだというのだろう?リリーはふたたび絵筆をとりながら自問した。・・・そのとき不意に、一瞬そこになにかをはっきりと見て取ったかのような力強い筆さばきで、リリーは一本のラインを絵の中央にひいた。さあ、これでできた。ようやく終わった。疲れ切って絵筆を置きながら思う。ええ、わたしは自分のヴィジョンをつかんだわ。」(374-5頁)
ラムジー夫人は、8人の子供を育てる聡明で愛情深い女性で、彼女の夫の大学教授はエキセントリックだが真面目な人物である。リリーはラムジー夫人の知り合いの年下の独身女性で、絵を描くことを彼女の一生の課題としている。ラムジー夫人は超美人だが、まったくそれを鼻にかけることもない。リリーは、どちらかといえば、不美人だが、容姿よりもひたすら自分の絵のあるべきの構図ほうが気にかかるような、自分独自の軸をもった女性である。でもどちらも、そうした外面的なものを取り去れば、その精神において、作家の分身のような気がした。
まったくキリスト教的な本ではないけれど、読んでいると、決して人を決めつけないように、その人の態度に嫌悪感を覚えたとしても、それでもなお相手の立場を理解し、相手のよいところを努めて発見しようとする、そうした二人のヒロインの精神の態度のなかに、人間の低きに流れがちな傾向性に対するブレーキのように、聖書の言葉が響いているような、そんな感じがした。この小説は、聖書になんて、まったく、触れていないのに。単なる、気のせいかもしれないけれど、ついでに、私の心に浮かんだ聖書の一節を、自分の備忘のために、記しておきたい。
「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪びとだと決めるな。そうすれば、あながたがも罪びとだと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。与えなさい、そうすれば、あなたがたも与えらえる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。」ルカ、6,37-38
なにはともあれ、ありがとう、新潮文庫の100冊!今年、この本を選んでくれて。私の御年60歳の夏が往く。この本の世界と共に過ごした夏が。こんな年になって初めて、ヴァージニア・ウルフの小説を読めた。まだまだ、この世界には、自分の知らない、素晴らしいものが、たくさんあるのだ、と感じさせてもらえた。ほんとうに、ありがとう。