『天界と地獄』を読んで③ 人間の精神の糧は真理と愛

久々に善い訳で読んだ『天界と地獄』には、ほかにも心しておきたいなあと思ったことがあったので、備忘のために抜粋しておこうと思います。アリストテレスは、『デ・アニマ』の中で、人間の魂で、死後にも残る神的な部分は、ヌース、すなわち理性だけだと言っていたような気がします。ここで言われていることも、それに近いかな。古代ギリシアの哲学は、プラトンにせよ、アリストテレスにせよ、ほんとうに霊界のこともわかっていて、それを書物の中に残してくれているのではないかなあ、と素人の自分は思いますが、たぶん、専門家の先生には、そんなふわふわした考え、一蹴されてしまうのかな。ともあれ、以下、宮帯版社の同書から抜粋です。

「死後も外的記憶は残りますが、単なる自然界レベルの記憶はあの世では再現されず、自然界レベルの記憶に相応でつながっている霊的レベルの記憶だけが再現されます。・・外的記憶は、・・・この世で役立った用途では霊には役立ちません。なぜならこの世にいる人間は、外的感覚から考えても内的感覚(知的感覚)からは考えないからです。・・したがって外的記憶のうち物質的なものは、あの世では静止します。人間がこの世で物質的なものを通して吸収し、理性的にしたものだけが役立つのです。」(同書38頁)

 

「・・人間はこの世で言語や科学的知識において通じる程度に応じて死んだ後も理性的なのではなく、言語や科学的知識を通して理性的になった程度に応じて死んだ後も理性的なのです。私は、ヘブライ語ギリシャ語、ラテン語などの古代語に担当であったためにこの世で博学だと言われていた多くの人々とあの世で話しました。しかし彼らは古代語を読むことで理性を磨いていませんでした。古代語を全く知らない人と同じくらい無知な人もいましたし、愚かな人さえいました。それなのに、自分は人並外れて賢いのだという傲慢さは残っていました。」(同書39頁)

 

「人間は多くのことを記憶すればするほど賢くなると思っていた人たちと話したこともあります。彼らは多くの物事を記憶していましたが、記憶したこと以外はほとんど話しませんでした。他人の言葉で話すだけで自分の言葉で話さないのです。彼らの記憶したことを、理性を磨く上で生かしていませんでした。」(同書39頁)

 

同書によれば、人間の精神は、「天界の光(神の真理)と天界の熱(神の愛)がなければ生長しない」のであり、「これらがあって初めて理性が磨かれるのです」とされており、真理を愛し、それをほんとうに追求する中で磨かれていくべきなのが、人間の理性であるということなのだと思われます。なんだか、結局、愛する息子にもらった絵本の内容と同じことをいっているのかな、という気もしますが。

 

自分は、40歳から神学部に編入して2年だけですが、ラテン語を第一外国語にして学び、聖書ヘブライ語も聖書ギリシア語もほんとに苦労して単位を取ったので、文字の読み方だけでも、忘れたらもう一度覚えるのは至難の業だと思い、できるだけ毎朝、ヘブライ語旧約聖書を一章、ギリシア語の新約聖書を一章、音読することにしています。昨日、神さまのお恵みにより、ギリシア語の新約聖書は、26回目を読み終えることができました。今日から、また、27回目、読んでいきたいと思います。内容はまったく頭に残っていません。ただただ、文字の読み方や単語の意味を忘れないための音読。理性はこれっぽっちも磨かれていないと思います。理性をつかうのは、相当の気力がいり、ほんとうにしんどく、理性を遣おうと思うと、続けられないような気がします。だからこそ、そうした理性を磨いた人だけが、ほんとうには、知性ある人ということになるのだとおもいます。でもそれでも、この世では、亡くなった神父様の本の出版に際して、編集を担当されていたお友達に聖書箇所の確認を頼まれた時に、神父様がギリシア語原文に即してお話しておられるところなどは、新共同訳と訳が違うけれども正しいということを確認してお伝え出来たりしたこともあるし、日頃の聖書への慣れ親しみが、非常勤の授業のなかでも日々役に立ってくれることはあるので、これからも主のご助力を願い、老化がさらに進んで気力が衰えるまでは、続けられたらと願っています。アーメン、主よ、来りたまえ。今日も、善い日でありますように、